偶然という名の奇跡
祖母の家にはいつも空っぽのガラスケースがあった。
いつも同じ場所に置かれて、いつも空っぽ。
「おばあちゃん、どうしていつも空っぽなの?」
孫の問いには、いつも同じ答えが返った。
「待っているんだよ。いつ戻ってきてもいいように」
「戻ってくるの?この中に?」
「そうだよ」
「何が?」
「おばあちゃんの大切な人形さ」
「人形?」
「昔、まだおばあちゃんがミツルのお母さんくらいだった頃にもらったんだ」
「どうして、いなくなっちゃったの」
「手放してしまったんだ。
ミツルのおじいちゃんは早くに亡くなってしまってね。
生きていくためにはお金が必要だった。
だから、お金に換えられるものは全て換えてしまった」
ミツルは、寂しそうな祖母の横顔をただ見つめた。
「戻ってこないだろうけど、この場所だけはどうしても残しておきたい。
もう一度会いたい。そう願っているんだよ」
思い出にはできない。したくない。
空っぽのケースを見つめる祖母は、まばたきもせずに残像を追っていた。
月日がたち、少年は大学生になった。
「ばあちゃん」
「いらっしゃい」
ミツルの下宿先は実家と祖母の家の中間あたりだった。
頻繁にではないが、顔を出すようにしている。
「母さんたちのほうには顔だしてるのかい?」
「たまにはね。けど帰ったところで、言ってくるのは同じことだし」
「心配してるんだよ。幾つになっても親は親。
同じように子供は子供さ。お茶くらいしかないけど飲んでくかい」
「ありがと」
「よっと、、、、」
立ち上がる様子を見ながら、やはり年をとったのだと思う。
風景は変わらずとも時間はすぎている。そしてあのガラスケースも空っぽのまま。
「人形、戻らないね」
「もう無理かもしれない」
小さなため息が落ちた。
「ずいぶん昔のことだもの。しかたなかったとはいえ、自分から手放したのだし」
その眼差しは徐々に強さを失い、より寂しさを感じさせる。
「ミツル、お前は絶対に失いたくないものってあるかい?」
「俺?そうだな、、、、」
祖母が言う絶対は半端なものではない。
あの人形に対する想いのように、月日がたっても変わらないもの。
思い出のように優しくはなく、無理だとどこかで諦めそれでも断ち切れない望み。
今のミツルに、そこまで入れ込んでいるものはない。
「ばあちゃんの人形ほどのものはないな」
「そう。まあ、ミルツはこれからだものね。たくさんの人と出会って、いろんなことを経験して」
「ばあちゃんの人形みたいに大切なものって、できるのかな」
「できないほうが楽かもしれないよ」
「ばあちゃん?」
「このまま戻らなかったら、死ぬまでこんな思いをするのかと考えると。
手放したから、人形が怒ってるのかもしれないね」
「、、、、、」
背中に一瞬走った。
見えない何かが絡みつき、どこかへ引きずり込んでいきそうで。
ミツルはとっさに引き戻す。
「そんなことないって。しかたなかったんだろう?そうしなきゃ、生活できなかったんだから」
「そうだけど」
「ばあちゃんが母さんたちを守ってくれたから、俺がいるんだしさ。あまり考えすぎるなよ」
「そう思うしかないかね。ありがとうミツル」
微笑みながらも祖母は肩を落とした。その姿はまるで、見えない呪縛を背負っているかのようだった。
変わらない日常がすぎていくある日。いつものように大学からの帰り道を歩いていた。
「ミツルは明日来れるよな」
「明日?何かあったっけ」
「飲み会。できたばっかの店、試してみようって言ったじゃないか」
「と、明日だったよな。悪い。行けるよ」
「遅れてきたらおごりだからな」
「わかってるって」
しばらく歩き、ミツルは足を止めた。
「今日、こっちから行くわ」
「どこか寄るのか?」
「本屋。でかい店こっちにしかないからさ。明日な」
「忘れんなよ」
友人と別れ、ミツルは一人で歩き出した。
大学で使う専門書は、近くの本屋には置いていない。
いつもは取り寄せなのだが、最近になって大型店がオープンした。
ミツルは地図を見ながら本屋に向った。
「そう遠くないはず、、、ん?」
とある店の前で、ミツルは足を止めた。
「人形の店?」
ショーウインドウの向こうには、大小様々な人形が並んでいた。
ガラスの瞳がミツルを見つめる。
「すご、、、、」
圧巻としか言いようがない。
これだけの瞳に見つめられると、思考が止まり吸い込まれるよう。
(ばあちゃんの人形て、どんなのだろう。やっぱり日本人形かな。値段なんて想像つかないけど)
鏡越しにのぞいてみるが、見える範囲に値札はなかった。
ミツルは呼ばれるように店に入った。
「いらっしゃいませ」
「どうも」
軽く返し、ぐるりと見渡す。数は多いが、日本人形は見えなかった。
一つ値札をひっくり返してみる。
「たっか、、、、」
思わず出てしまった言葉に、ミツルはふいと違うほうを見るが
「かまいませんよ。扱っている私でもそう思いますから」
こう言われ、声の主を見た。
「オーナーのイツキです」
「えと、、、すみません。つい」
「何かお探しですか」
「いえ、どれくらいするものなのかなって。驚きました。学生のバイト代じゃ、とうてい無理ですね」
「有名作家の一点物ともなれば、破格の値がつくこともあります。
とはいえ、死後名の売れた作家も多いですから、その点は何とも」
確かに、骨董と名のつくものは百年単位で時代を遡るのがセオリー。
ここに並ぶ人形たちも、長い時間人を見つめ続けてきたのだろうか。
「何か、俺が人形を見てるのに、見られてる気がする。変ですよね。人形は物なのに」
「人形は物です。けれど持主の心を映す鏡でもあると思っています」
「鏡?」
「寂しい、悲しい。そんな想いで人形を抱けば人形の表情も寂しげに見える。
逆に嬉しい時や楽しい時に人形を抱けば、人形も笑っているように見える。不思議なものですよ」
「ここの人形は」
「抱き締めてくれるオーナーとの出会いを待っている状態の人形は、まだ何の感情も映しません。
けれど、人の手を経てこちらでお預かりしている人形は、また別のものです」
豪華なドレスを纏い歩く人を見つめる人形は、さながら王子様を待つ姫君といったところだろうか。
「いいオーナーと出会えるといいですね」
「ありがとうございます」
茜色が店の中に差し込んできた。
「すみません。少し失礼しますね」
「あ、俺もこの辺で。お邪魔しました」
「またどうぞ、お立ちよりください」
ガラスの瞳に見送られ、ミツルは店を出た。
本屋に寄りアパートに戻ってすぐ、携帯が鳴った。
「もしもし。母さんか」
かけてきたのは母だった。
「うん。変わりないよ。明日?明日は無理だな。明後日なら空いてるけど」
用件は実家に顔を出せないかというものだった。話があるというのだか、内容は会ってからだという。
「わかった。明後日はそっち帰るよ。ああ、それじゃ」
互いに必要なことだけを伝え、電話を切った。
「体でも悪くしたかな。こっちにあれだけ言っといて」
そう緊迫した話ぶりではなかったが、ただのお喋りとも違うだろう。
気になりはするが、明後日と約束したのだから急がずともいい。
そう思い、ミツルは夕飯の支度を始めた。