碧い幻影


               ある日、一人の少女のもとに二通の手紙が届けられた。
               共に表書きはなく、裏には差出人とおもわれる名前のみが書かれている。
               ジェレミーとアイリス。知っている名前ではない。
               訝しげに思いながら、手紙を太陽にかざしてみた。
               かわったところはなさそうだ。

               少女は手紙の封をあけた。

       私の名はジェレミー。
       私は君の深い記憶の底に眠る過去。
       これは、君が君になる前に綴られた、遠い昔の物語。


       彼女はよく海を見つめていた。
       誰もいない、ただ波の音だけが静かに響いている海。
       私はゆっくりと彼女の方に歩みをよせる。
       私の姿を見つけると、かすかに微笑みをみせる。
       彼女は私の腕の中が一番安らげる場所だという。
       包むと壊れてしまいそうな人。
       儚げで繊細で、ガラス細工のようなもろさを秘めた人。
       私にすべてを預けるかのように何も言わないその表情は
       ただ時の流れに溶けて消えてしまいそうだった。

       『あなたの為に、私に何ができるかしら』
       そう問うた彼女に
       『そんなことを考える必要はないよ』
       私は答えた。
       彼女はそれを、私の優しさととったようだ。
       だが、その裏にあるものに気がつくはずもない。
       私の心の中で二つの思いがせめぎあい
       激しくぶつかり合っている。
       この先に起こることを私は受け入れられるのだろうか。
       今の私にできるだろうか。
       答えなどでない。
       ただ今は、私の腕の中にいる白い少女を
       そっと包んでいてやりたい。それだけだった。
       少女の名は、アイリス。


       時がたつにつれ、彼女は私の瞳を
       心配そうに覗き込むようになった。
       おそらく私は、彼女を以前のような眼差しで
       見れなくなっていたのだろう。
       一度だけ告げたことがある。
       『私は君を悲しませるかもしれない』
       『あなたが私の前から消える以外ありえない』
       返ってきた言葉に私は微笑みを返すしかできなかった。
       私が彼女に告げたのは名前のみ。
       どこの誰なのか、それを知らせることもなかったし
       彼女も尋ねることはしなかった。
       もし一瞬を永遠にできたなら。
       かなわぬ儚い望みだとわかっていても
       心だけはせめて彼女のもとに。

       それからどれだけの季節が巡っただろう。
       彼女はあの海に姿を見せなくなった。
       かわりに暖かい陽だまりのなかで、静かな時に包まれている。
       腕の中の彼女の体が軽くなっていった。
       その時がきたのだと、私は思い知る。
       避けたかった現実。
       だがこれが、まぎれない現実なのだと。
       そしてあの夜、私は本来の姿で彼女のもとを訪れた。

       緩やかに風が吹いていた。
       夜の闇に紛れ、私は彼女の部屋のバルコニーに降り立った。
       そっと窓を開ける。
       風を感じた彼女がゆっくりと歩いてくる。
       私の胸は激しく音をたてている。
       そして、バルコニーにでてきた彼女を後ろから抱きしめた。
       せめて安らかでいられるよう。
       いや、まだ憎まれたほうがいいのかもしれない。
       息がつまる。言葉などでなかった。
       『すまない』
       そのやっとでた一言に、彼女は微笑みを返した。
       そうこの時は、私の背にある白の翼もまた
       彼女を優しく包んでいた。

       すでに気づいていたのかもしれない。
       私が何者なのか、これからどうなるのか。
       『あなたの腕の中にいる今なら、何がおきても幸せよ』
       彼女の言葉は、私を安心させると同時にこの胸を締め付ける。
       もう流すことなどないと思っていた涙が頬を伝った。
       そして、彼女の魂は鳥になった。
       あの空の彼方へ。私とともに。


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