碧い幻影


               何故、この手紙が自分のもとに届けられたのか。
               思い当たる理由などなかった。
               ただ、ジェレミーがアイリスに向けた想いは伝わった。
               どれほど大切に想っていたのか、それ故にどれほど辛かったのか。
               そしてもう一通はアイリスからジェレミーに向けられた想い。

       私の名はアイリス。
       私はあなたの深い記憶の底に眠る過去。
       これは、あなたがあなたになる前に綴られた、遠い昔の物語。


       エメラルドに輝く海。光に輝く砂と青い空の下。
       あの人が来てくれる。私に会うために。
       揺らめく影が、ゆっくりとあの人の姿に変わる。
       愛しい人。優しく大きな腕。
       すべてを受け止めてくれるという。
       涙も喜びも、悲しい時も嬉しい時も。
       でも私はあの人を受け止めていられるだろうか。
       あの人から与えられることだけを望むつもりはないけれど。
       私にできることは何なのか。あの人は笑って言った。
       『そんなことを考える必要はない』と。

       ただ二人、誰もいない海で夢をみていたい。
       でも夢は夢。泡沫のガラス細工のようなもの。
       美しすぎる夢の中で
       いつしか私はそこから出ることを忘れていた。
       いや、出ることを拒否したのだ。
       一瞬を永遠に。
       例え時が止まっても
       最後の瞬間は夢の中にいたいと望んだ。
       そして叶うなら、あの人の腕の中で。
       あの人は私を抱きとめてくれるだろうか。
       出会ったあの場所を、今も愛しく思ってくれるだろうか。
       あの人の声が耳の奥で私の名を呼んでいる。アイリスと。

       あの人が私に向けるのは穏やかな微笑みだけ。
       どこか寂しげにみえる時もあった。
       その訳を尋ねることはなかったけれど
       一度だけあの人が言った。
       『君を悲しませるかもしれない』と。
       『あなたが私の前から消える以外はありえない』
       そう答えた時、あの人はただ微笑みを返した。


       それからどれだけの季節が巡ったのだろう。
       私は、私の命が終焉に近いことを知った。
       鼓動が緩やかに弱くなり
       海ではなく庭の陽だまりで過ごすことが多くなった。
       あの人は毎日来てくれた。
       そしていつものように私を包んでくれる。
       このままなら、わたしは最後の時を迎えてもいいと思った。
       愛しい人の腕の中、こんなにも穏やかに眠れるのなら。

       どこの誰なのか。
       私が知っているのはジェレミーという名前だけ。
       他にのことなど、知る必要もなかった。
       私の傍らにいてくれる、それだけで何もいらないのだから。

       そしてある夜、私は風を感じて目が覚めた。
       閉めたはずの窓が開いていた。
       バルコニーに出た私を抱きとめたのはあの人だ。
       だが、あの人は何も言わない。
       風が波打つブロンドを静かに揺らしている。
       その時私は知った。最後の時がきたのだと。
       私を抱きとめているのは腕だけではなかった。
       彼の背に、純白の翼が翻っている。
       『すまない』
       その言葉に私は答えた。
       『あなたの腕に中にいる今なら、何があっても幸せよ』
       後にみたのはあの人の微笑み。
       そして私は鳥になった。あの空の彼方に。あの人とともに。

               この手紙は少女にある決心をさせた。
               それは、今の自分の恋に決着をつけること。
               ただ見つめるだけの恋を、前に進める勇気が少女の中にうまれたのだ。
               少女は手紙をそっとしまうと部屋をあとにした。
               そんな背中を押すように、風が優しく吹き抜けた。


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